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ケビン・ドーク教授の靖国論考・・産経新聞より

産経新聞紙上に3回に渡って
米ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授の
「靖国参拝の考察」という論文が掲載されました。

非常に格調高く、見識深い文章なので
ここに載せておきます。

全て載せると産経に怒られるので
一部引用に留めようと思いましたが、
なかなか名文なので削るに削れず、
「七部引用」ぐらいになってしまいました(笑)
産経さん、許してね。


 <毎月訪れて、敬虔さ示せ>

 私は日本の近代史、とくにナショナリズム、
 民主主義、文化などを専門に研究する米国人学者として、
 靖国神社をめぐる論議には長年、真剣な関心を向けてきたが、
 自分の意見を対外的に表明することは控えてきた。
 靖国問題というのは日本国民にとって
 祖国への誇りや祖国を守るために戦没した、
 先人への心情にかかわる微妙な課題であり、
 あくまで日本国民自身が決めるべき内面的な案件だと
 考えてきたからだ。

 ところが最近、中国だけでなく米国の論者たちが
 外部から不適切な断定を下すようになった。
 だから私も日本の自主性への敬意を保ちつつ、
 遠慮しながらも意見を述べたいと考えるようになった。

 民主主義社会の基礎となる個人の権利や市民の自由は
 他者の尊厳への精神的な敬意が前提となる。
 とくに敬意を表明する相手の他者が死者となると、
 それを表明する側は目前の自分の生命や
 現世を超えた精神的、精霊的な意味合いをもこめることとなる。

 死者に対しては謙虚に、
 その生前の行動への主観的な即断は控えめに、
 ということが米国でも日本でも良識とされてきた。
 死者を非難しても意味がないということだ。
 ましてその死者が祖国のための戦争で死んだ先人となると、
 弔意には死の苦痛を認知できる人間の心がさらに強い基盤となる。
 その心の入れ方には
 宗派にとらわれない信仰という要素も入ってくる。

 以上が現在の米国でも日本でも
 戦没者を悼むという行為の実情だろう。
 小泉純一郎首相の靖国参拝もこの範疇であろう。
 首相自身、自分の心情を強調し、
 政治的、外交的な意味を否定しているからだ。

 首相は戦没者の慰霊には靖国ではなく
 千鳥ケ淵の無名戦士の墓のような所に
 参ればよいという意見もある。
 しかし普通、生きている人間が死者に弔意を表することには
 現世を超越した祈りがこめられる。
 信仰とはまったく無縁の世俗的な場での戦没者への追悼では
 遺族にとっても重要な要素が欠けてしまう。
 国家としての追悼として不十分となる。

 米国でもアーリントン墓地での葬儀や追悼には
 なんらかの信仰を表す要素がともなうことが多い。
 往々にしてキリスト教の牧師らが祈りの儀式を催す。
 葬儀が教会で行われるのも同様だ。
 日本でも葬儀が寺や神社で催されるのは、
 別に参加者が一定の宗派の信者でなくても、
 死者に対し精神あるいは心情からのなにかをささげるからだろう。
 靖国参拝も現世を超える、
 そうしたなにかをともなう慣行だといえる。
 靖国に参拝するためには
 神道の主義者でも信者でもある必要はないのだ。
 この事実は靖国参拝が
 特定の宗教への関与ではないことを裏づけている。
 宗派を超えた深遠な弔意表明とでもいえようか。

  
 <教皇庁も認めた「慣行」>

 一般に靖国をめぐる論議は戦後だけのことと思われているが、
 実際には戦前の一九三〇年代にも似た現象があった。

 日本では明治憲法で保障された宗教の自由が
 第二次大戦中までも保たれた。
 戦時の日本の政界や学界では
 今中次麿、田中耕太郎両氏らキリスト教徒が活躍した。
 そんな時代の一九三二年五月、
 上智大学のカトリック信徒の学生たちが
 軍事訓練中に靖国への参拝を命じられたのを拒み、
 その拒否を同大学のホフマン学長も支持するという出来事があった。
 参拝が宗教の押し付けになりかねないという懸念からだった。

 だが、東京地区のシャンボン大司教が文部省や陸軍省に
 参拝が宗教的行事かどうかを正式に問うたところ、
 「参拝は教育上の理由で、愛国心と忠誠を表すだけで、
 宗教的な慣行ではない」との回答を得た。
 これを受け、ローマ教皇庁は三六年五月に日本の信徒に向け、
 「靖国参拝は宗教的行動ではないため
 日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい」という通達を出した。

 その結果、日本のカトリック教徒は
 自由に靖国を参拝するようになったが、
 ローマ教皇庁が事実上の独立国家として
 日本政府の「靖国参拝は宗教的慣行ではない」という見解を
 尊重したことの意味は大きい。
 日本国民の自国への独自の価値観や愛国心を
 そのまま認めたということだからだ。
 日本という主権国家の内部での慣行への尊重だといえる。
 しかも、さらに重要なのは教皇庁が
 戦後の一九五一年にも三六年の靖国参拝に関する決定を再確認し、
 現在にいたっているという事実である。

 私人か公人かという区分も意味がない。
 米国ではブッシュ大統領がキリスト教会を訪れても
 公私の別はだれも問わないし、
 それが宗教的礼拝であっても、米国内の仏教やユダヤ教、
 イスラム教などの信徒たちは
 自分たちの権利が侵害されたとはみなさない。

 小泉首相の靖国参拝はA級戦犯合祀のために
 戦争の正当化となるからよくないという主張がある。
 私は、靖国が決してA級戦犯だけでなく、
 祖国の戦争のために亡くなった、
 すべての人たちの霊をまつった神社であり、
 その先人たちの行動を絶対の正確さで
 善か悪かを判断する立場には現代の私たちはないし、
 戦犯とされる人の霊に弔意を表したから、
 その人の生前の行動すべてに賛意を表明するわけでもない、
 と反論したい。

 生きる人間は生や死に対し謙虚でなければならないとも思う。
 国家の指導者に対しては、
 彼らのいまの政策にはいくらでも反対し、非難もできる。
 だが遠い過去に死んでしまった故人の行動を非難しても、
 もう故人は弁護はできない。
 死者の行動の善悪をはっきり断定できるほど、
 私たちが完璧だとも思えない。

 米国では南北戦争で敗れた南軍将兵の墓地が
 連邦政府の資金で保存され、
 政府高官を含めて多数の米国人が訪れる。
 国立のアーリントン墓地にも
 一部の南軍将兵が埋葬されているにもかかわらず、
 歴代大統領が訪れ、弔意を表す。
 南軍はアメリカ合衆国に敵対して反乱し、
 しかも奴隷制を守るために戦った軍隊だった。

 小泉首相の参拝反対への理屈をそのまま使えば、
 米国大統領が国立墓地に参拝することは
 南軍将兵の霊を悼むことになり、
 奴隷制を正当化することともなってしまう。
 だが、米国の歴代大統領も国民の大多数もそうは考えず、
 戦没者のすべてが子孫からの敬意を受けるに値すると判断し、
 実際に弔意を表するのだ。


 <慰霊への干渉は不当>

 中国政府が小泉純一郎首相の靖国神社参拝を
 軍国主義や戦争の美化と結びつけて非難することは
 あまりにも皮肉な倒錯である。
 いま中国が異様なほど大規模な軍拡を進めていることは
 全世界が知っている。
 その軍国主義の中国が日本の首相の神社参拝をとらえて、
 軍国主義だと非難するのだ。

 首相が神社に参拝するからその国が軍事的だという主張は
 悪い冗談のようであり、
 靖国をあくまで糾弾するのならもっと真剣な理由を探してほしい。
 靖国参拝を軍国主義と結びつけるのは
 中国側の口実にすぎないのだ。

 中国が靖国を攻撃する背景には
 政治や外交の武器にするという目的以外に、
 信仰や宗教を脅威とみて、反発するという現実がある。

 中国政府は共産党員に主導され、
 共産主義者はみな公然たる反宗教の無神論者だ。
 共産主義の教理上、あらゆる宗教や信仰を
 本質としては認めないという立場であり、
 その非民主的な指針を民主主義の外国である日本に
 押しつけようとしているのだ。
 その指針の適用の行き着く先は、市民の自由や人権の弾圧となる。

 中国は日本のA級戦犯を非難するが、
 東条英機氏らがたとえどんな悪事を働いたとしても、
 毛沢東氏が自国民二千万以上を
 殺したとされることに比べれば軽いだろう。
 だが毛氏は死後に中国で最高の栄誉を与えられ、
 国民が弔意を表する。
 中国が日本に対して主張する理屈に従えば
 生前の「犯罪」のために
 弔意を表してはならないことになるのだろうが、
 私は中国人が毛氏の霊に弔意を表する権利を認めたい。
 外部の政府や人間の関知することではないのだ。

 同様に米国民は南軍将兵の霊に、
 日本国民は東条氏らをも含む戦争のために死んだ人たちの霊に、
 それぞれ弔意を表する権利がある、ということである。
 だがその哀悼は毛氏や東条氏、
 さらに米国の場合、南軍司令官だったリー将軍が
 生前にすべて正しい行動をとったとみなすこととは異なるのだ。

 A級戦犯とされた人たちへの追悼が
 侵略戦争の美化だと断ずることは過酷にすぎる。
 戦争犯罪というのはベトナム戦争などの例をみても、
 一方にとっての犯罪が他方にとっての英雄的行為になりうる。

 米国の一部には米国政府が靖国問題に介入し、
 小泉首相に参拝をやめるよう、
 圧力をかけるべきだという意見があるそうだ。
 しかし日本人が自国の戦没者をどう慰霊するかに
 他国が介入すべきではない。
 自由で民主的、平和的な国の、
 民主主義的手続きで選ばれた政治指導者が年に一度、
 慰霊の場で戦没者に対し静かに頭を下げるという行為に
 なぜ外国政府が介入すべきなのか。


 【プロフィル】ケビン・ドーク

 1982年米国クインシー大学卒業、
 シカゴ大学で日本研究により修士号、博士号を取得。
 ウェークフォレスト大学、イリノイ大学の各助教授を経て、
 2002年にジョージタウン大学に移り、
 同大学東アジア言語文化学部の教授、学部長となる。
 日本での留学や研究も高校時代を含め4回にわたり、
 京大、東大、立教大、甲南大などで学ぶ。

 日本の近代史を基礎に日本の民主主義、ナショナリズム、
 市民社会、知的文化などを専門とする。
 著書は「日本ロマン派と近代性の危機」
 (日本語版題「日本浪曼派とナショナリズム」)など。

   (産経新聞)


う~ん、格調高いですね。

ローマ教皇庁の部分などは私も初耳でしたね。
さすがバチカンです。

「追悼」という行為は
所詮は深く深く人間性を考察した上でなければ
その本質は理解できないものだと思います。

無神論と唯物主義を国是とする中共に
この種の敬虔なる行為を
理解させようたって無理な話です。

私は前々から不思議に思ってたのですが、
唯物主義国家たる中国が、
一方において「毛沢東への弔意」なんて言う。
「弔意」ってのは何だと。
唯物主義的発想の中に弔意って意味があるのかと。

あるいは「名誉回復」なんていう、
共産国家ではよく使われる言葉がありますが、
無神論の唯物主義者にとって
「名誉」ってのはどういう意味があるのかと。
人間とは所詮は物質の固まりであり、
死ねば何もかもが終わると考える彼らにとって、
「名誉」や、その死後の「回復」なんて無意味ではないかと。
ましてや「追悼」や「弔意」などを
共産主義者が語るのは論理的矛盾ではないかと。

とまあ、疑問に思ってしまうのですが、
彼らの綱領の中では「追悼」ってどういう位置づけなのか、
私は聞いてみたい気がします。



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テーマ:靖国参拝 - ジャンル:政治・経済

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コメント

靖国参拝

朝日の若宮に読ませたい名文です。中韓はいいがかりをつけているだけ。なのに、言いがかりを擁護する国内反日が許せない。そんな奴らは日本から消えろと乱暴にも思ってまいます。

  • 2006/05/29(月) 15:25:30 |
  • URL |
  • 若宮 #-
  • [編集]

歴史が裁きますよ。

若宮氏ですか。

ああいう人の言論も
いずれは大きな歴史の流れの中で
どこかで裁かれていくでしょう。

ちょうど北朝鮮が拉致を認めて
今までそれを否定していた左派の政治家や
評論家・文化人の欺瞞が明らかになったように。
あるいは、戦後にマルクス主義と
それに伴う価値観を称揚した連中の書籍・論文が
ソ連崩壊後に紙切れ一枚の価値もなくなり、
古本屋ですら見向きもしなくなったように。

あと、十数年ではっきりしますよ。
また、そうなるように頑張っていきたいものですね。

  • 2006/05/29(月) 17:40:51 |
  • URL |
  • ケイ@管理人 #-
  • [編集]

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