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米国:信教の自由とキリスト教精神・・イスラム教徒が聖書で宣誓?

イスラム教徒初の下院議員、コーラン手に宣誓表明
 米で議論沸騰

 イスラム教徒が米国の下院議員の就任宣誓で、
 キリスト教の聖書ではなく、
 イスラム教の聖典コーランを手に宣誓することは許されるのか。
 
 11月の米中間選挙で、
 イスラム教徒として史上初めて下院議員に当選した、
 民主党のキース・エリソン氏(43)=中西部ミネソタ州選出=が、
 来年1月に予定される宣誓の際、
 コーランを手に宣誓すると表明し、全米に波紋を広げている。
 憲法で保障された信教の自由か、
 それともキリスト教を中心とする、
 米国の伝統を尊重すべきかで議論が沸騰している。

 1日付の米紙USA TODAYなどによると、
 エリソン氏は来年1月4日に予定される就任式で伝統的な聖書を拒み、
 「コーランを手に宣誓する」と宣言した。
 これに対し、ウェッブサイト
 「Townhall.com」上のコラムで、
 保守系コメンテーターのデニス・プレガー氏が
 「米国の伝統を傷つける」
 「聖書で宣誓できないのなら、下院議員を務めるべきでない」
 と猛反発した。
 プレガー氏の批判をきっかけに、
 このサイトには約800通のコメントが寄せられ、
 賛否両論の議論が繰り広げられる事態となった。
 
 保守系のブロガーは「米国はキリスト教国だ」
 「イスラム教徒は最近、過大な影響力を持ち始めている」として
 コーランでの宣誓を批判。
 一方、「米国は政教分離だ」
 「信教の自由は憲法で保障されている」といった擁護論も展開された。
 プレガー氏のコラムが掲載されて以来、
 ミネソタ州のエリソン氏の事務所には、
 議員辞職を求めるなど数百通の抗議の電子メールが殺到したという。
 
 しかし、エリソン氏側は
 宣誓でコーランを携える初の議員になると主張。
 「憲法はどの聖典を手に就任宣誓することも認めている。
 これは信教の自由の問題だ」と反論している。
 一方、プレガー氏は、自分はユダヤ人だとしたうえで、
 「米国の長い歴史上、
 新約聖書を認めることができないユダヤ教徒でさえ、
 公職に就く際には、(キリスト教の)聖書で宣誓してきた」と主張。
 そのうえで、プレガー氏は、エリソン氏が言うように、
 誰もが自分の好きな聖典を選んで宣誓ができるのなら、
 人種差別主義者が議員に選ばれた場合、
 ナチス・ドイツの“バイブル”であった、
 アドルフ・ヒトラー総統(1889~1945年)の著書、
 「わが闘争」で宣誓することを認めることになってしまうと反論した。

   (iza!)


この論争は非常に興味深いですね。

イスラム系の議員氏はコーランで宣誓しようとし、
これに反対する保守系コラム氏は
「あくまでも聖書で宣誓せよ」と言う。
いかにも多民族国家の米国らしい問題です。

さて、このニュースは日本人の記者が書いた記事だけに

  「憲法で保障された信教の自由か」
  
  「それともキリスト教を中心とする、
  米国の伝統を尊重すべきか」

という2つの対立軸で内容を構成してますが、
私はもう一つ別な観点があると思います。
それは、

  イスラム教徒がキリスト教の聖書を用いて宣誓した場合、
  それは本当に「宣誓」になりうるのか?

ということです。

自分の信じてないものにかけて誓ったことが
「宣誓」として意味があるのか?ってことです。
おおらかな宗教的態度を取る日本人には
こういう発想はとっつきづらいかもしれませんが・・。

本論に入る前に歴史上のエピソードを書いておきます。

江戸時代に幕府はキリスト教を禁止しており、
隠れキリスタンを弾圧していました。
見つかると牢屋にぶち込まれ、改宗を迫られるわけですが、
その際に転向に同意した者に幕府や各藩は誓約をさせました。

  私は「デウス(キリスト教の神)」を信じないことを誓います。

その他に聖書を踏ませる(踏み絵)などして
本当に内心から改宗したのか否かの確認をとったわけですが、
この誓約の時に幕府や藩の役人達が困ったのは
「何にかけて誓わせるのか?」ということです。

即ち、たとえばキリスタンから仏教徒に改宗する場合、
普通に考えるならば、

  仏陀にかけて改宗を誓います。

となります。

本当に心から仏教に改宗した人はこれでいいのですが、
問題は改宗したと偽り、
実は内面ではキリスト教の信仰を持ち続けている人の場合です。

この偽改宗者が

  仏陀にかけて改宗を誓います。

と言ったところで、宣誓にならないわけです。
何故なら、彼は仏陀を信じてないわけで
自分の信じないものに掛けて誓ったことなど、
彼の内面的倫理からみれば誓約の名に値しません。
破ったところで彼の倫理感は痛まないわけです。

ここらへん日本人的宗教観から見れば
実に小難しい話しなのですが、
そこで幕府や諸藩が考え出した宣誓方法は、

  私はデウスにかけて
  デウスを信じないことを誓います。

というものでした。

なんと珍妙な言い方でしょう。
一見、言葉自体が矛盾してるじゃないかと思えます。

これを本当に改宗した人に言わせたところで
本人はもはやデウスを信じてないので
あまり誓約としては意味がないわけですが、
それは幕府や諸藩も重々承知していました。

問題は偽りの改宗を宣言した人で、
この人物に、

  私はデウスにかけて
  デウスを信じないことを誓います。

と言わせようとすると、
この人物が真面目な信者であればあるほど、
内面の倫理的葛藤が大きくなるわけです。

  デウスにかけてデウスを信じません。

熱心で純な信者ほどこのセリフが言えず、
言葉に詰まるわけです。

で、そこで役人達は
「お前は心から改宗しとらんじゃないか!」と言い、
再び牢屋にぶち込むわけです。

これは江戸時代に実際に行っていた、
ある意味、珍妙な宣誓方法です。
しかし、論理的帰結としてこれ以外になかったわけです。


さて、話しを現代に戻します。

この江戸期のエピソードから
上記のニュースを見ると、実に興味深いものがあります。

ニュース中の保守系コラム氏は
このイスラム系の議員に対して、

 「米国の伝統を傷つける」
 
 「聖書で宣誓できないのなら、下院議員を務めるべきでない」

と猛反発したそうですが、
彼の言い分も理解できます。

確かに米国の国家理念及び国民性は
キリスト教精神によって形成されており、
その国の議員がコーランに基づき宣誓するということは
伝統と国家理念から見て許容しがたいものがあります。

しかし、この保守系氏の迂闊なことは

  聖書にて宣誓せよ

と言っていることです。

これはすでに見てきたとおり、
宣誓として意味を成さないわけです。

さらに、保守系氏は

 自分はユダヤ人だとしたうえで
 「米国の長い歴史上、
 新約聖書を認めることができないユダヤ教徒でさえ、
 公職に就く際には、聖書で宣誓してきた」と主張。

とありますが、
これはユダヤ系議員は
長い間、無効な宣誓をし続けてきたということで
それ自体が問題じゃないかと思うんですがね。

おそらく米国の国会議員の誓約というものは、

  国家に対して忠誠を誓い、職責を貫徹します

こういう類の内容なのでしょうが、
本来、自らの是とする宗教や倫理基準にてらして誓わせないと、
その宣誓自体が意味がないということになるわけです。


日本においても国会議員も宣誓してますし、
裁判などでも「真実を述べる」という意味で宣誓しています。
これを破れば偽証罪ということになるわけですが、
では、日本人は何に対して「宣誓」しているのでしょうか?

たいていの日本人は
それが仏教徒であれ、神道の徒であれ、
「釈迦に誓って」とか「天照大神に誓って」という発想はありません。

日本人の場合、意識的にしろ無意識にしろ、
たいていが「自らの良心」にかけて誓っているわけです。
これが普通の日本人の宣誓のあり方だと思います。

しかし、これはキリスト教圏やイスラム教圏の人間には
理解しがたいことなのです。

  自らの良心?
  そんなあやふやなものに誓ったところで
  それが誓約になりえるのか?

彼らにとっての誓約とは
神などの絶対的存在に誓ってこそ
「誓約」たりえるのであって、
相対的存在である人間の良心に誓うという発想は
とても信じがたいことだと思います。

まあ、どっち良いか悪いかとか、
どっちが優れているかということではなくて、
かくも日本人と彼らでは発想の機軸が違うということですね。


この米国でのイスラム系議員の宣誓問題には
模範解答などありません。

あっちを立てればこっちが立たずで
国家理念としてのキリスト教精神を立てれば信教の自由に反し、
信教の自由を優先すれば国家理念に抵触します。
また、キリスト教精神を前面に押し出して
非キリスト教徒に聖書にかけて誓わせようとすると、
これは宣誓行為として無意味になります。

まあ、セレモニーと割り切ってやるなら別ですが、
「誓約」ということで
一定の精神性なり規範性を付加するならば、
当人が最も信じ、
最も精神的に依拠するものに対して誓わせなければ、
意味がありません。

問題の根源は
キリスト教精神で培われてきた国家に
「信教の自由」という近代的理念の増築をしてるからで、
ここから問題の全てが発生しています。

キリスト教という原木と、信教の自由という接木が
互いに最も相矛盾している箇所が
この議員の宣誓という問題として表れているわけです。

それは米国のみならず、
同じキリスト教圏の欧州でも
イスラム系の移民の増加などで同じ悩みを抱えており、
また、イスラム圏の国家も
本来のイスラム教の理念と
近代国家としての欧米的価値観の狭間で苦悶しています。

これの解決策は
キリスト教、イスラム教のみならず、
全ての価値観を包含・統合しうる理念を新たに創造するか、
はたまた世界が日本のように
寛容な宗教的態度と「自らの良心」に重きを置く、
価値観に転換するかのどちらかです。

即ち、より高次な思想体系の創出か、
世界が日本化するかのどちらかということになります。

まあ、どちらも難しい道ではありますが・・。



関連過去記事

米国とイスラエル・・ユダヤ系ロビーとキリスト教福音派








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コメント

旧約聖書

イスラム系議員の誕生は気になっていました。

旧約聖書で誓えば、というのはだめかな(無責任

  • 2006/12/06(水) 21:31:58 |
  • URL |
  • worldnote #5hYG8PUI
  • [編集]

思想や宗教が追いつけてないんですよ

> 旧約聖書で誓えば、というのはだめかな

なるほど。
キリスト・ユダヤ・イスラム3教の妥協点としては
そこしかないですもんね。
でも、仏教やヒンズー教には通じないんでしょうが (^_^;)

難しい問題ですけど、
同時に日本人としては興味深くもあります。

18世紀から20世紀にかけて
交通や通信が急速に発展したからこその人類の悩みでしょう。
それまで地域単位で分裂していた国家・民族が
たかだかここ3百年ほどで急激に一つになっていく。
このスピードに思想や宗教が追いつけてないんですよ。

もっと二千年ほどかけて科学や技術が進歩してたら、
案外、こういう問題は生じなかったのかもしれません。

この手の問題は、
ああいう多民族国家の米国の悩みであり、
同時にイスラム国家にしてEU加盟を希望している、
トルコの悩みでもあるでしょう。

  • 2006/12/06(水) 23:53:39 |
  • URL |
  • ケイ@管理人 #-
  • [編集]

日本の場合、昔は天皇でしたが

日本は世界でも珍しい、「神様がいない国」なんですよね(一応、天皇がいますが)。

自分自身の信じる神がいないから、日本人は自分なりの哲学をして、自分なりの信念(神様)を作るそうです。それは、善悪二元論という単純なものではなく、凄く多元的で多種多様なものなんだそうです。

なので、日本人がアニメや映画で作る独特な世界観が、外国人には新鮮に映るそうです。

神の名がつけば、イスラム教徒は喜んで自爆攻撃するし、神の名の下に、キリスト教徒は喜んでイスラム教徒を撃ちます。彼らは、神の名がつくと、途端に盲目的になる様な気がします。

昔は、人間に地獄や天国の概念を教え、罪を起こさないための足かせとして神の存在が必要でしたが、社会形態が進んだ現在では、むしろ、神様の存在は社会には必要なくなってしまったのかもしれません(争いの元になってしまっているし)。

  • 2006/12/07(木) 00:31:45 |
  • URL |
  • トウテキ #nD3hnkrE
  • [編集]

尊び、頼らず

私は有神論者であり、
日本は神がいない国とも思ってません。
この場合、神という概念を
どう定義するのかという問題はありますが、
少なくとも無神論者ではありません。

まあ、それをあれこれ議論する気はありませんし、
それこそ「神学論争」になっちゃうので (^_^;)
避けたいと思っています。

私の場合、個人的な好き嫌いで言うと、
宮本武蔵の言葉がピッタリきます。
即ち、

  神仏を尊び、神仏に頼らず

この感覚が一番スンナリと自分の中に入ってきます。

  • 2006/12/07(木) 01:13:37 |
  • URL |
  • ケイ@管理人 #-
  • [編集]

> 神仏に頼らず

明治になって自助論(セルフヘルプ)が受けた理由ですな。
あと、日本の神はやおろずですから、欧米と比較するなら「天」かも。天は自ら助くる者を助くと。

  • 2006/12/07(木) 03:46:32 |
  • URL |
  • worldnote #5hYG8PUI
  • [編集]

スマイルズ!

確かにスマイルズは好きですね。
あれは熟読しました。
英国興隆期の象徴のような本ですね。

ついでに言うと、
カール・ヒルティも大好きです。
渡部昇一さんが紹介されてますが、
今じゃ故郷のスイスではあまり知られてないそうですね。
むしろ日本の方が有名のようです。

なんか、記事とは全然違う話題になってしまいましたが (^^;)

  • 2006/12/07(木) 22:17:20 |
  • URL |
  • ケイ@管理人 #-
  • [編集]

憲法25条を習ったときに、自助努力が25条の前提であると教えられました。

>天は自ら助くる者を助く
>神仏を尊び、神仏に頼らず
これらの哲学、処世術の素養を持つ人民は為政者にとり御しやすいでしょう。


  • 2006/12/08(金) 21:40:53 |
  • URL |
  • ジャポネーズ #-
  • [編集]

逆じゃないでしょうか

う~ん、私は逆だといますね。

為政者にとってコントロールしやすいのは
依存心が強い人々でしょう。

逆に独立心が旺盛な人は御すのは大変だと思いますよ。

  • 2006/12/12(火) 01:31:08 |
  • URL |
  • ケイ@管理人 #-
  • [編集]

私が言いたかったのは平常の平和時において、権利の名のもとに国の救済を求めず、与えられずとも為政者を責めない、という意味でです。

風予防はうがい薬を使ったうがいと手洗いの励行につきます。お大事に

  • 2006/12/12(火) 02:12:41 |
  • URL |
  • ジャポネーズ #-
  • [編集]

なるほど

なるほど、そういう意味ですか。
失礼しました (^^;)

風邪も流行ってますが、
それ以上に感染性胃腸炎というのも流行ってるみたいですね。
うちの職場の一人もそれにかかってしまいました。
外から帰ったらうがいは必須ですね。

  • 2006/12/12(火) 02:17:51 |
  • URL |
  • ケイ@管理人 #-
  • [編集]

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